Dense2's Blog Weekly

~『週刊電説』【Just Another KissBlog】

◎「関が原の戦い」布陣を現代のサッカー・フォーメーション風に解説すると…!?

☆今日は「七夕」の日…あいにくの梅雨空ですが、410年前に遡り、「関が原の戦い」に思いを馳せることにしてみましょう!!

★「関が原の戦い」は慶長5年9月15日(1600年10月21日)午前8時前に火蓋が切って落とされた…とされています。
~で、その時の東西両軍の布陣は、下記の通りだったとされています。〔Wikipediaより転載〕

Wikipediaに掲載の「関が原の戦い」布陣図

東軍 vs. 西軍:戦力比較

  • 東軍:10万4千人
    • 徳川家康〔大老格:総大将〕:30,000
    • 徳川秀忠〔大名格:上杉討伐軍→中仙道守備隊へ〕:
    • 浅野幸長〔大名格:後詰〕:6,500
    • 福島正則〔大名格:先鋒〕:6,000
    • 黒田長政〔大名格:先鋒〕:5,400
    • 細川忠興〔大名格:次鋒〕:5,000
    • 池田輝政〔中名格:後詰〕:4,500
    • 井伊直政〔中名格:次鋒〕:3,600 ← “本能寺の変“後、武田領を侵食した際、召抱えた武田家遺臣〔”赤備え“の井伊隊として名を馳せる〕
    • ~ココまでの主要7将で、”61,000“人
      ]下線を引いた大名・中名は、元々は豊臣恩顧であったことを示しています

  • 西軍:82,000人
    • 毛利秀元(輝元名代)〔大老格:総大将:右翼挟撃軍〕:15,000
    • 石田三成〔奉行格:司令官:左翼後詰〕:6,000
    • 宇喜多秀家〔中納言:左翼主力軍〕:17,000
    • 小早川秀秋〔大名格:右翼主力軍〕:15,000 ← この”小早川の寝返り“が戦況を一変させたことはあまりにも有名!!
    • 長宗我部盛親〔大名格:最右翼挟撃軍〕:6,600
    • 大谷吉継〔中名格:後詰〕:4,100 ← “らい病患者“であったにも関わらず、石田三成への”友愛“精神から西軍へ参戦!!
    • 小西行長〔中名格:左翼主力軍〕:4,100
    • 吉川広家〔中名格:右翼先鋒〕:4,000 ← 当初から、”東軍への内応組“であり、結果的に、毛利軍本隊の参戦を食い止めたことで有名!!
    • ~ココまでの主要7将で、”70,700“人【陣形でも人数でも東軍を凌駕していたのですが…】
      ]下線を引いた大名・中名は、元々は豊臣恩顧であったことを示しています

<若干の補足>《時代背景

  • 東軍の布陣:魚鱗の陣
    ~”逆V字形“の中央突破的な攻撃的隊形

    • この布陣は、”野戦を得意とする“家康が必勝を期してとった布陣
    • 三方を山に囲まれた地形を逆手に取り、東西にとても長い”香車的“陣形
    • 最前線の”先鋒“部隊には、豊臣恩顧福島正則黒田長政を配し、功を競わせる戦法に出た
  • 西軍の布陣:鶴翼の陣
    ~”鶴が翼を広げたように見える“ことから名付けられた布陣で、どちらかと言えば、迎え撃つ防御的隊形

    • この布陣は、”先に着陣“し山麓などの”高所“を押さえると断然”有利“となる
    • 先ず、北国街道を挟む笹尾山麓石田三成隊が少し引いて陣を張り、反対側の天満山麓島津隊・小西隊が最前線部隊として張り出し、南側の伊勢街道への押えとして松尾山麓宇喜多隊・小早川隊などの主力を割いた。【ココに主力の”半数“以上が結果的には終結してしまった…】さらに、東軍の退路である中仙道への後詰の備えとして、南東端の南宮山麓に総大将格の毛利隊長宗我部隊を配置、万全の包囲隊形を敷いた。
    • 南側の陣、すなわち、鶴翼の”右翼に当たる小早川隊毛利隊吉川隊も元々は毛利御三家 三本の矢であり、隣の長宗我部隊も合わせれば、秀吉が懐柔策で臣従させた西国大名ばかりである…という点で、陣形はアンバランスでもあった

☆さて、ここで、サッカーのフォーメーションと対比しやすいように、布陣図を右へ90度回転させてみましょう!!

Wikipedia掲載の「関が原の戦い」布陣図の縦置き解説図

= (現代サッカー風の)フォーメーション解説

  • 東軍のフォーメーション4-2-2-24-4-2
    • 最終ライン後詰】から最前線へ行くほど先細りする”クリスマス・ツリー“隊形
    • 最前線と最終ラインの間の距離が恐ろしいまでに開いてしまっている【”間延び“した隊形:縦長布陣】
    • 半面、最前線の”先鋒隊“は程良く密集しており、コミュニケーションはとりやすい
  • 西軍の布陣WWシステム
    • これは、サッカーで言えば、1925年の《オフサイドルール改定》時に、アーセナルが採用したMWシステム【3-2-2-3システム】に近い
    • オフェンス陣もディフェンス陣も”二段構え“でサイドを広く使いワイドに展開している
    • 陣(選手)間の距離がほぼ”等間隔“なので、コミュニケーションはとりやすい

実戦での戦評

  • サッカーのWMシステム3-2-2-3システム】に近い西軍の鶴翼の陣は、本来なら、攻撃時は二列目・三列目からどんどん選手が飛び出し分厚く攻めることができ、守備時は高い位置からどんどん敵を取り囲み包囲殲滅できる布陣の筈だった
    ~実際は、右翼主力軍の小早川隊が東軍へ寝返ったため、スグ隣の大谷隊はもちろんのこと、左翼主力軍の小西・島津隊までもが”側面攻撃“される形となり、鶴翼の陣形は自壊してしまった
  • また、右翼主力軍の小早川隊と南方の東南後詰軍の毛利・安国寺・長宗我部隊との距離が開き過ぎていたので、コミュニケーションはしっかりととれていなかった
    ~さらに、身内の吉川隊が主力軍の毛利隊下山を阻む陣取りをしていたため、結局、毛利隊は参戦できなかった。【また、四国の長宗我部隊は終始”日和見を決め込んでいた】
  • 一方の東軍…ブラジル並みの4-2-2-2(4-4-2)システムに近い魚鱗の陣は、実は、”中央突破“型の集団戦法、すなわち、”力攻め“のスタイルだった
    家康関が原の中仙道沿いのほぼ中央に”司令塔“然の本陣を堂々と敷けたのも、後詰山内一豊など東海道筋の豊臣恩顧の大名たちを事前の政治工作で味方につけていたことと、最も信頼する”西国大名“の池田輝政を、同じく西国大名の毛利・長宗我部隊と対峙させていたからである【政治的な”兵力分断“作戦…結局、南方戦線は”戦力の真空地帯“(日和見戦線)と化してしまい、サッカーで言えば、サイド攻撃が全く利かない状況に陥ってしまった】

★歴史に「もしも」はつきものだが、この状況で、西軍に唯一の”勝機“があったとすれば…
~それは、開戦直後の”最初の二時間“にしかなかったと思える。長引けば長引くほど、家康の”政治工作“が功を奏し、西軍の西国大名たちがどんどん寝返るか日和見を決め込むかした筈だからだ。ブラジル並みのFWを擁する血気盛んな福島隊黒田隊などを早々に叩き殲滅しておければ、良い条件での”講和“に持ち込むことくらいはできただろうに…とは思うのですが。【蛇足ながら、こうした西国大名、特に、この毛利御三家毛利小早川吉川】への戦後の冷遇(約束反故の”減封“)が西国大名たちの《忘れまじ、関が原》の風潮を生み、後の”明治維新“の原動力ともなった…という説もありますね。しかしながら、当時の西国大名たちは概して”日和見“主義であり、勝てた戦に勝利できなかった…という”勇気のなさ“と”戦局眼の欠如“のことも、決して忘れるべきではないと思うのです】

参考]海上 知明:『信玄の戦争 - 戦略論『孫子』の功罪』〔KKベストセラーズ;ベスト新書#124;2006-11-20〕

~これは、武田信玄が傾倒した戦略論:『孫子』と織田信長が(無意識に)援用したマキァベッリ:『君主論』の比較考察から、『孫子』の”限界“をあぶりだした本です。この中で、信玄が好んだ”鶴翼の陣“や信玄の宿敵:謙信が好んだ”車懸りの陣“、それに、軍神:山本勘助が編み出した”啄木鳥戦法“などの解説がとても詳細に記されていて、参考になります

『信玄の戦争 - 戦略論『孫子』の功罪』画像

2009年 7月 7日 - Posted by | History, Soccer | , , , , , ,

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