☆新設!! - 《PHP+MySQL》で自作WEBアプリに挑戦…!?
★これまで、『週刊電説』【Dense2’s Blog Weekly】ではオンラインのWP:WordPress【ワードプレス】のことばかりに触れてきました。でも、探究心の強い人にはアレだけでは物足りなかったかもしれません。なので、今回は、”インストール型“にチャレンジするための前段階として、《WAMPP/XAMPP》【ワンプ/ザンプ】という「開発環境」について、少しだけお届けしますね。
☆WP:WordPress【ワードプレス】などのいわゆるWEBアプリ(ケーション)は、コアは《PHP+MySQL》という、一種のプログラムの「塊」【モジュール】になっているのですが、それを開発しながら安全に試運転(テスト)するためには、それなりの「開発環境」が必要です。これらをマトメた、”フリー“【オープンソース】のものに、《WAMPP/XAMPP》【ワンプ/ザンプ】というスグレモノがあります。これは、自分のPC内で”ローカル“【インターネットに接続しないオフラインの状態】で《擬似サーバー環境》を提供してくれるオール・イン・ワン・ソフトです。これを使うことによって、自分のPC内の”WEBブラウザー“【IE:InternetExplorerやFF:FireFoxなど】で確認しながらセキュアな環境下での開発が可能になります。
◎《XAMPP》【ザンプ】について -
~これは、実質、”Windows“対応のPCを前提としているので、《WAMPP》【ワンプ】ということです。尚、Mac対応のPC向けには《MAMPP》【マンプ】というものがあります。
- WAMPPの入手先⇒ http://www.apachefriends.org/jp/xampp-windows.html
- WEBサーバー:Apache【アパッチ】
- スクリプト言語:PHP
- データベース:MySQL
…の「三点セット」に加え、PHPでよく使う汎用プログラム・セットをマトメたライブラリーである”PEAR“【PHP Extension and Application Repository】なども入っています。
◎Smartyについて -
~このWP:WordPress【ワードプレス】にせよ、いわゆるWEBアプリケーションの構造は、”ロジック“【データ管理】を担う《PHP+MySQL》などのモジュールと”デザイン“【テンプレート】を担う《(X)HTML+CSS》などのテーマ(スキン)・セットから成り立っているのですが、この両者をつなぐ「テンプレート・エンジン」として”Smarty“というものがあります。【一種のPHPの拡張書式みたいなもの】
- Smartyの入手先⇒ http://www.smarty.net/download.php
…この”Smarty“を使うメリットとしては、特に、オンライン・ショップなど更新頻度の高いWEBサイトの場合、ロジックとデザインを切り離し主に「データ管理」の部分のみに専念して作業が進められるというメリットがあります。
※参考図書について -
・藤本 壱:『作って覚える PHP+MySQLアプリケーション - ブログ、ショッピングサイトからマッシュアップまで』〔ソシム;2008-07-03〕
- = 目 次 =
- 第1章:開発環境を整える〔主に、XAMPPについて〕
- 第2章:MySQLの基本とPHPからの利用
- 第3章:Smartyでロジックとデザインを分離する
- 第4章:ミニブログのシステムを作る
- 第5章:ショッピングサイトのシステムを作る
- 第6章:マッシュアップWebアプリケーションを作る
[参考]著者のブログサイト
★移設予告!!★
☆平素は、この『週刊電説』をご覧いただき、誠にありがとうございます。 <(_ _)>
※一部の読者からご要望がありましたので -
- “WP“【WordPress | ワードプレス】関連の「特集記事」
- “サッカー“【フォーメーション】関連の「コーナー」
- “戦略論“【『孫子』 | 『呉子』】関連の「コーナー」
…などは、別ページに移設していく予定です。
[注]この『週刊電説』は、当初のスタイル、すなわち、《BLog》【Book Log:「読後日記」】風に戻す予定ですので、ご了承下さい。
◎都議選「夏の陣」~「衆議院解散」までの流れを『孫子』風に解説すると…!?
☆「勝って兜の緒を締めよ」ではないが、日曜深夜の都議選後、民主党の”第一党“と”自・公の過半数割れ“が判明した直後でも、民主党幹部は、一様に(笑いを噛み殺していたのかもしれないが)表情は硬かった。それも無理はないのかもしれない…何と言っても、今回に限り、民主党の《選挙戦略》がまんまとハマったからでもある。週明けからは、いよいよ”解散・総選挙“をニラんでの本格的な《夏の陣》が動き出す。民主党は、”政権交代“に向けた、大詰めの仕上げの段階を迎えたと言える。
★一方の自民党…麻生首相は何とかココまではと思っていた”イタリア・サミット“までは政権を保たせた、否、しがみついて来た。「後は野となれ、山となれ…」ではないだろうが、相当覚悟を決めての帰国だったようで、当初予想より一週間遅れではあるが、”解散予告“という伝家の宝刀を抜いてみせた。妥協の産物ではあるだろうが、麻生総理にしてみれば、何とか自分の面子とプライドを守れたのだから佳しとするか!?てな感じなのだろう。氏の”(官邸)籠城作戦“は、結果的に、《四面楚歌》の状況を招いただけだった。
◎この一連の流れを、『孫子』風に解説してみると -
・山本 七平:『「孫子」の読み方』〔日経ビジネス人文庫;2005-08-01〕
~今から思えば、この文庫本の出版が2005年8月1日とちょうど4年前になるのは、偶然の一致にしてはでき過ぎのような気がする。【あの”郵政解散・総選挙“の直前だからです】
= 『孫子』による分析・解説【尚、一部は『呉子』による】 =
・第一の”ターニング・ポイント“:2008年10月末頃
~かえすがえすも、麻生内閣発足直前に起きた”リーマンショック“とその後の”金融大不況“に対する《アセスメント》【影響評価】を、実際よりも低く見積もった楽観的態度、これが今に至る”過ち“の始まりだったと思われる。
- 「孫子曰く、兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざる可からず。故に之を経むるに五事を以てす。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。故に之を校するに計を以てし、其の情を索む。〔以下省略〕」【『原孫子』:1.計篇より】
~麻生首相にこんな基本中の基本をアドバイスする気などさらさらないが、約一年後、予想もしていなかったレベルにまで”追い込まれる“ことが分っていたなら、政権発足時の”情勢分析“をもっと謙虚にできていただろうに…と残念ではある。
因みに、道とは統治者と国民の一体感のことで、麻生政権の最大の弱点がこれにあったことをご本人はハッキリと自覚しておられたのか!?と思う。三代続いての国政選挙の審判を経ない総理という”正統性の欠如“、これを考えたなら、就任直後の”解散“が、むしろ、正攻法に見えてくるから不思議なものだ。次の天とは自分の力では変えられない時間的・時代的前提〔制約〕のことで、これも、当時の麻生首相にとってはまさに”逆風“だった。三番目の地とは地理的条件または立地条件のことで、現代風に言えば、ポジショニングとでも言えようか!?同盟国:アメリカが弱体化し、BRICs特に”中国“や”ロシア“が相対的に存在感を増す中で、”外交の麻生“を自認する総理がどんな手腕を振るうのか!?この点だけには期待を持った人たちも少なくなかったのではないだろうか!?四番目の将とは司令官のことで、これは、自らが組閣した大臣や事務次官クラスの”人事権“の発露だったが、これも中途半端に終わった。要するに、最も大切な自らの”レゾンデートル“【道を切り拓くための強い”存在意義“】、これが決定的に欠けていた、あるいは、国民にアピールできなかったが故に、結局、精神論頼みの強行突破のような内閣の船出となった感は否めない。最後の法とは法・制度・組織原則のことだが、これは分りやすく言えば、自らの拠って立つ存立基盤のようなものである。麻生政権は、この部分でも、発足の当初からその物理的な意味でも精神的な意味でも、極めて”脆弱“な政権ではあった。そして、逆風下の日本丸をどこへ導こうとしているのか!?その”計“も示せなかったし、情勢分析のための”情“も充分とは言えなかった。
・第二の”ターニング・ポイント“:2009年年頭の国会冒頭
~昨年末に、”派遣切り“や”(日比谷)年越しテント村“などの騒動は起きたものの、実質の”緊急避難“的な経済対策などは既に出尽くした感があった。だから、アメリカでの”黒人初の大統領誕生“というビッグ・イベントに埋没しないうちに、「解散を打つ」というのが最良のタイミングだったと思われる。
しかしながら、何故か!?首相はみすみすこの好機を見逃してしまった…どの道、景気はこの1-3月期が”大底“と見られていただけに、英断して欲しかったと悔やまれてならない。
- 「占わずして、これ(戦争)を避くる者(相手)六あり。〔途中省略〕凡そ此れ敵人に如かずんば(及ばない)、これを避くること疑うなかれ。いわゆる可を見て速み、難を知りて退くなり」【『呉子』:料敵第二・二章より】
~この時は、『呉子』の《不戦均衡戦略》としての”解散権の行使“を断行するべきではなかったか!?と思われる。この時点では、自民党も民主党もさしたる”失点“はなく、国民にも「自公政権か民主政権か!?」という選択肢はまだ明確になっていなかった…むしろ、”政権協力“を呼びかける手だってあった筈なのに、、。
・第三の”ターニング・ポイント“:2009年4月上旬頃
~麻生政権の”唯一無二“の解散のチャンスはこの時だった。3月末に”WBC連覇“という偉業に日本中が沸き、その熱も冷めやらぬ中での北朝鮮の”飛翔体発射騒動“という国防上の危機が起こり、さらに、今度は政敵:民主党の小沢代表の”違法献金疑惑“の問題…これだけお膳立てが揃えば充分の筈なのに、この時も、総理は伝家の宝刀を抜かなかった。【抜こうとも思っていなかったのではないだろうか!?】現職の首相として、”正攻法“で「国民に信を問う」ことができる絶好の好機だったのに。
- 「孫子曰く、兵は脆道なり。故に能にして之に不能を示し、用にして之に不用を示し、其の無備を攻め、其の不意に出ず。故に我戦わんと欲すれば、敵、塁を高くして溝を深くすと雖も、我と戦わざるを得ざるは、其の必ず救う所を攻むればなり。我戦を欲せざれば、地に画して之を守るも、敵、我と戦う得ざるは、其の之く所に乖けばなり。故に善く攻むる者は、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず。故に善く戦う者は人を致して人に致されず。」【『原孫子』:6.虚実篇より】
~これは、殆ど解説の必要がないくらいに、平明で分りやすい”戦略“である。すなわち、常に「主導権を握り続けよ!」ということであり、この時は、どちらかと言えば、”玉“が何となく(ムードだけで)政敵の民主党のほうへ行きかけていたところに、スポーツと世界情勢で外からの刺激が与えられ、さらに、民主党自身が珍しく(!?)”チョンボ“を犯した直後だけに、時を置かずそこだけを一気に突くべきだった…麻生首相自身の妙なプライドが邪魔したのか何だか知らないが、この時も”冷徹“な将に徹しきれなかった。大甘だと言われても仕方がないだろう。
・そして、ついに、これまでの”ツケ“を支払わされる形で、運命の”都議選【「夏の陣」】へ…
~4月上旬の”復調期“での解散に打って出られなかった自民党は、その直後から、”地方首長選挙“での連戦連敗という、”兵の溶解“状況に陥っていく…いわゆる戦う前からの厭戦気分の蔓延現象である。こうなってからではもう遅い!
- 「故に兵を用うるの法、其の来らざるを恃むこと無く、吾が以て待つ有るを恃むなり。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻む可からざるを恃むなり。」【『原孫子』:8.九変篇より】
~これは、マリナーズのイチローがいつも口にしていることではあるが、”準備の大切さ“に関わることである。民社党は、戦いの山場を”今夏“と早くから見据え、この”都議選“に向けた戦略すなわち”準備“を万事遺漏なく整えたフシがある。【その最たるものが、意表を突いた”公示直前の駆け込み追加公認“という奇策であった。”中選挙区制“の地方選挙では同党討ちの危険すらあったのだが、自公政権が”お家騒動(!?)”にかまけている間隙を縫うように、この策がズバリとハマった格好である】かくして、民主党は、4年前のリベンジを果たすべく、粛々と最後の”王手“を打ち終えたのだった…
◎「関が原の戦い」布陣を現代のサッカー・フォーメーション風に解説すると…!?
☆今日は「七夕」の日…あいにくの梅雨空ですが、410年前に遡り、「関が原の戦い」に思いを馳せることにしてみましょう!!
★「関が原の戦い」は慶長5年9月15日(1600年10月21日)午前8時前に火蓋が切って落とされた…とされています。
~で、その時の東西両軍の布陣は、下記の通りだったとされています。〔Wikipediaより転載〕
= 東軍 vs. 西軍:戦力比較 =
- 東軍:10万4千人
- 徳川家康〔大老格:総大将〕:30,000
- 徳川秀忠〔大名格:上杉討伐軍→中仙道守備隊へ〕:
- 浅野幸長〔大名格:後詰〕:6,500
- 福島正則〔大名格:先鋒〕:6,000
- 黒田長政〔大名格:先鋒〕:5,400
- 細川忠興〔大名格:次鋒〕:5,000
- 池田輝政〔中名格:後詰〕:4,500
- 井伊直政〔中名格:次鋒〕:3,600 ← “本能寺の変“後、武田領を侵食した際、召抱えた武田家遺臣〔”赤備え“の井伊隊として名を馳せる〕
~ココまでの主要7将で、”61,000“人
[注]下線を引いた大名・中名は、元々は豊臣恩顧であったことを示しています - 西軍:82,000人
- 毛利秀元(輝元名代)〔大老格:総大将:右翼挟撃軍〕:15,000
- 石田三成〔奉行格:司令官:左翼後詰〕:6,000
- 宇喜多秀家〔中納言:左翼主力軍〕:17,000
- 小早川秀秋〔大名格:右翼主力軍〕:15,000 ← この”小早川の寝返り“が戦況を一変させたことはあまりにも有名!!
- 長宗我部盛親〔大名格:最右翼挟撃軍〕:6,600
- 大谷吉継〔中名格:後詰〕:4,100 ← “らい病患者“であったにも関わらず、石田三成への”友愛“精神から西軍へ参戦!!
- 小西行長〔中名格:左翼主力軍〕:4,100
- 吉川広家〔中名格:右翼先鋒〕:4,000 ← 当初から、”東軍への内応組“であり、結果的に、毛利軍本隊の参戦を食い止めたことで有名!!
~ココまでの主要7将で、”70,700“人【陣形でも人数でも東軍を凌駕していたのですが…】
[注]下線を引いた大名・中名は、元々は豊臣恩顧であったことを示しています
<若干の補足>《時代背景》
- 東軍の布陣:魚鱗の陣
~”逆V字形“の中央突破的な攻撃的隊形- この布陣は、”野戦を得意とする“家康が必勝を期してとった布陣
- 三方を山に囲まれた地形を逆手に取り、東西にとても長い”香車的“陣形
- 最前線の”先鋒“部隊には、豊臣恩顧の福島正則や黒田長政を配し、功を競わせる戦法に出た
- 西軍の布陣:鶴翼の陣
~”鶴が翼を広げたように見える“ことから名付けられた布陣で、どちらかと言えば、迎え撃つ防御的隊形- この布陣は、”先に着陣“し山麓などの”高所“を押さえると断然”有利“となる
- 先ず、北国街道を挟む笹尾山麓に石田三成隊が少し引いて陣を張り、反対側の天満山麓に島津隊・小西隊が最前線部隊として張り出し、南側の伊勢街道への押えとして松尾山麓に宇喜多隊・小早川隊などの主力を割いた。【ココに主力の”半数“以上が結果的には終結してしまった…】さらに、東軍の退路である中仙道への後詰の備えとして、南東端の南宮山麓に総大将格の毛利隊と長宗我部隊を配置、万全の包囲隊形を敷いた。
- 南側の陣、すなわち、鶴翼の”右翼に当たる小早川隊も毛利隊も吉川隊も元々は毛利御三家の 三本の矢であり、隣の長宗我部隊も合わせれば、秀吉が懐柔策で臣従させた西国大名ばかりである…という点で、陣形はアンバランスでもあった
☆さて、ここで、サッカーのフォーメーションと対比しやすいように、布陣図を右へ90度回転させてみましょう!!
= (現代サッカー風の)フォーメーション解説 =
- 東軍のフォーメーション:4-2-2-2(4-4-2)
- 最終ライン【後詰】から最前線へ行くほど先細りする”クリスマス・ツリー“隊形
- 最前線と最終ラインの間の距離が恐ろしいまでに開いてしまっている【”間延び“した隊形:縦長布陣】
- 半面、最前線の”先鋒隊“は程良く密集しており、コミュニケーションはとりやすい
- 西軍の布陣:WWシステム
- これは、サッカーで言えば、1925年の《オフサイドルール改定》時に、アーセナルが採用したMWシステム【3-2-2-3システム】に近い
- オフェンス陣もディフェンス陣も”二段構え“でサイドを広く使いワイドに展開している
- 陣(選手)間の距離がほぼ”等間隔“なので、コミュニケーションはとりやすい
= 実戦での戦評 =
- サッカーのWMシステム【3-2-2-3システム】に近い西軍の鶴翼の陣は、本来なら、攻撃時は二列目・三列目からどんどん選手が飛び出し分厚く攻めることができ、守備時は高い位置からどんどん敵を取り囲み包囲殲滅できる布陣の筈だった
~実際は、右翼主力軍の小早川隊が東軍へ寝返ったため、スグ隣の大谷隊はもちろんのこと、左翼主力軍の小西・島津隊までもが”側面攻撃“される形となり、鶴翼の陣形は自壊してしまった - また、右翼主力軍の小早川隊と南方の東南後詰軍の毛利・安国寺・長宗我部隊との距離が開き過ぎていたので、コミュニケーションはしっかりととれていなかった
~さらに、身内の吉川隊が主力軍の毛利隊の下山を阻む陣取りをしていたため、結局、毛利隊は参戦できなかった。【また、四国の長宗我部隊は終始”日和見を決め込んでいた】 - 一方の東軍…ブラジル並みの4-2-2-2(4-4-2)システムに近い魚鱗の陣は、実は、”中央突破“型の集団戦法、すなわち、”力攻め“のスタイルだった
~家康が関が原の中仙道沿いのほぼ中央に”司令塔“然の本陣を堂々と敷けたのも、後詰に山内一豊など東海道筋の豊臣恩顧の大名たちを事前の政治工作で味方につけていたことと、最も信頼する”西国大名“の池田輝政を、同じく西国大名の毛利・長宗我部隊と対峙させていたからである【政治的な”兵力分断“作戦…結局、南方戦線は”戦力の真空地帯“(日和見戦線)と化してしまい、サッカーで言えば、サイド攻撃が全く利かない状況に陥ってしまった】
★歴史に「もしも」はつきものだが、この状況で、西軍に唯一の”勝機“があったとすれば…
~それは、開戦直後の”最初の二時間“にしかなかったと思える。長引けば長引くほど、家康の”政治工作“が功を奏し、西軍の西国大名たちがどんどん寝返るか日和見を決め込むかした筈だからだ。ブラジル並みのFWを擁する血気盛んな福島隊や黒田隊などを早々に叩き殲滅しておければ、良い条件での”講和“に持ち込むことくらいはできただろうに…とは思うのですが。【蛇足ながら、こうした西国大名、特に、この毛利御三家【毛利・小早川・吉川】への戦後の冷遇(約束反故の”減封“)が西国大名たちの《忘れまじ、関が原》の風潮を生み、後の”明治維新“の原動力ともなった…という説もありますね。しかしながら、当時の西国大名たちは概して”日和見“主義であり、勝てた戦に勝利できなかった…という”勇気のなさ“と”戦局眼の欠如“のことも、決して忘れるべきではないと思うのです】
[参考]海上 知明:『信玄の戦争 - 戦略論『孫子』の功罪』〔KKベストセラーズ;ベスト新書#124;2006-11-20〕
~これは、武田信玄が傾倒した戦略論:『孫子』と織田信長が(無意識に)援用したマキァベッリ:『君主論』の比較考察から、『孫子』の”限界“をあぶりだした本です。この中で、信玄が好んだ”鶴翼の陣“や信玄の宿敵:謙信が好んだ”車懸りの陣“、それに、軍神:山本勘助が編み出した”啄木鳥戦法“などの解説がとても詳細に記されていて、参考になります
☆『クラウドソーシング』〔ヒューマンネットワークの夜明け〕
※『クラウドソーシング』:はしがき〔ヒューマンネットワークの夜明け〕より
- 二人のジェイク
- 『スレッドレス・ドットコム』
~”二人のジェイク”、すなわち、ジェイク・ニッケルとジェイコブ・デハートという二人の大学中退者は、2000年頃、自分たちで”デザイン・コンテスト“の会社を興した。数ヵ月後、『スレッドレス・ドットコム』というWEBサイトを立ち上げ、デザイン投票⇒優勝者へは商品化&販売権を付与というシンプルな方式で、瞬く間に《Tシャツ・コンテスト・コミュニティ》を成長させていく。特徴的なのは、全くの”アマチュア同好会“でありながら、(ITベンダーなどを除けば)プロや業者の手を借りていないことにある。
- 偶然の経済
- 『アイストックフォト』
- 《デジタル・ネイティブ》の出現
- 《ユーザー生成コンテンツ》の隆盛
- こうした状況が生まれる動因として -
- 生産コストが安いこと
- 行き場のない才能や創造性が持て余されていること
- インターネット上に同好の士のコミュニティが築かれていること
- ソフトウェア開発における《オープンソース・ムーブメント》との融合
- P&Gの挑戦
- アメリカらしい「正しい民主的手続き」の復権として…
~”二人のジェイク”がTシャツのビジネスを始めた頃、”ブルース・リヴィングストン“も新しい事業に乗り出していた。『アイストックフォト』というWEBサイトを中心として《写真コミュニティ》が育まれていった。ココの特徴は、写真の使用料を通常のプロサイトでの価格の”1/100“程度に抑えたことと、その使用料をサイトと撮影者【著作権者】との間で”折半“したことである。【後に、”ゲッティ・イメージ“社に買収されるが、これは、YouTubeがGoogleに買収されたケースと似た例だった】
~これは、”未来学者“のアルビン・トフラーがその著書:『第三の波』の中で予言した、”プロシューマー“の登場に等しいものがある。すなわち、消極的(受身的)消費者から”積極的(参画的)発信者“へ…という流れである。しかも、この流れは、現在の「十代」【ティーン・エージャー】を中心として、確実に成長しながら力強いトレンドになっていっている…とされています。
~例えば、”コンバース・ギャラリー“という広告キャンペーンなどのように、製品メーカーの広告代理店がその消費者たちのような一般”ユーザー“から広告を募り投稿させるとか、素人起点の”UGC“【User Generated Contents】や”CGM“【Consumer Generated Media】を取り入れる企業が増えていること。これこそが、”ニューメディア“だともてはやされている。
などが挙げられています。
~OSの”リナックス“しかり、サーバーソフトの”アパッチ“しかり、ウェブブラウザーの”ファイアフォックス“【モジラ】しかり…「情報経済」のインフラの多くはこうした”ボランティア“の集団によって作られ支えられてきた。つまり、かつては、企業の正社員だけが手がけていた仕事を、大抵は低賃金で、あるいは無償で、集団として完成させるわけである。そして、人間に関する重大な真実として、しばしば企業よりもコミュニティのほうが効率良く仕事を進められるということが明らかになってきました。
~創業から160数年を経たかつての優良企業:プロクター・アンド・ギャンブル【P&G】は2000年半ばに苦境に立たされた。画期的な新製品を作れなくなり、株価は50%も下落、この緊急事態に新任のCEO:A・G・ラフリーを迎え経営の舵取りを任せる賭けに出た。彼は、「開放せよ」をスローガンに販売部門と研究開発部門、エンジニアリング部門とマーケティング部門を隔てる壁を取り払うと同時に、会社と仕入先、小売店、顧客との間の壁も取り払った。その上で、”《オープンソース》の開発手法を採り入れ、退職した研究員のコミュニティ・サイト:『ユア・アンコール』の開設に手を貸し、さらに、東欧・中国・インドなどの国々での知的資本推進エンジンとなりつつあった『インノセンティヴ』と呼ばれる、14万人の科学者からなるネットワークを活用することにした。これらの戦略はズバリ当たり、株価はそれまでの最高値を上回り、純利益は2007年に以前の3倍(100億ドル)を稼ぐまでに復調しました。【”IBM“はこの手法に早くから着目し、『アイデアジャム』というサイトを立ち上げています】
~これは、サン・マイクロシステムズの共同創立者:ビル・ジョイによって最初に指摘された、「誰であろうと関係ない。頭のいい人びとの殆どは他人のために働く」という革新的な真理を、《功・利他主義》という超・楽観的なレベルにまで信じようとする、いかにもアメリカ人らしいメンタリティでもあります。
- 小さいパーツの革命
- 結びとして - ヒューマンネットワークの明るい未来
~クラウドソーシングはインターネットと密接に関わっているが、その本質はテクノロジーには関係ない。それよりも重要なもの、興味深いものはテクノロジーによって生じる行動であって、特に、インターネットを介して沢山の人々が団結し、(自己)組織化して、生き生きと、パワフルに活動する可能性が出現しつつある…ということです。”Wikipedia“というネット上の百科事典の編纂にその片鱗は見られたが、最近では、『SETI@home』【JP】という”地球外生命体探索PT“への応用がその好例です。これは、一時もてはやされた”グリッド・コンピューティング“【分散コンピューティング】の考え方に似ていますが、インターネットをシステムの基盤【プラットフォーム】に据えた点でクラウドソーシングのほうがよりダイナミックであると言えるでしょう。
そして、この考え方の優れている点は、一般人の”スペアサイクル“【空き時間などの余剰処理能力・リソース】を拝借している…というところです。たまたまではありますが、今後、世界的に”ダブルワーク“や”トリプルワーク“などの《マルチタスクの時代》が恒常化していくトレンドの中、人間はようやくコンピューターの”クロック・サイクル“に合わせた働き方を得られるようになったと言えるのかもしれません。ネットには”常時接続“しているけれども、コンピューターを操作するのは”スペアタイム“で…というこのスタイルは、忙しい現代人には打ってつけなのかもしれませんね。
~インターネットは人々を孤立させる…という不吉な予言とは裏腹に、クラウドソーシングはインターネットのテクノロジーを利用し、様々な土地で、様々な背景の下に暮らしている人々に、団結し、意義ある交流をする機会を提供しつつある。また、クラウドソーシングは、もう一つの関係を築きもする。それは、”企業と顧客との協力関係“である。
そして、《マズローの欲求五段階説》に示されているように、人々は自分の才能を養うことや、自分の知識を誰かに教えることには大きな喜びを感じる。【”自己実現・表現欲求“としてのコミュニティーへの”貢献意欲“の発露】クラウドソーシングでは共同作業そのものが”報酬“となる”善循環“が生まれつつある…としています。
また、クラウドソーシングは、まさかと思うような所から才能ある人々を引っ張り出すという不思議な傾向を持っていて、大掛かりな”才能発掘装置“のような様相を呈しつつあり、これはまさに、《ロングテール現象》のより”純化“した形だと言えるでしょう。【”YouTube現象“がその際たるもの】
この点で、クラウドソーシングは、文字通り、地球の”フラット化“を加速する推進エンジンでもある…としています。【コールセンターの相次ぐ”BRICs移転化“などに顕著な現象】